この連載では、モーニングピッチで取り上げたテーマと登壇したスタートアップを紹介し、日本のイノベーションに資する情報を発信していきます。政府は経済安全保障や持続的成長の要となる17の戦略分野を定め、重点的に投資する方針を掲げています。この動きを踏まえ、2026年のモーニングピッチでは「日本成長戦略シリーズ」と題し、特集を組んでいます。今回は6月4日に開催した「創薬・先端医療特集」です。

人々の健康や命に直結するライフサイエンス・ヘルスケア産業は、自動車・モビリティや一般消費財などの主要セクターと比較しても、市場規模・年平均成長率ともにきわめて有望な成長領域です。
かつてドイツの病理学者ルドルフ・ウィルヒョウ博士は、「医学は社会科学であり、政治とは大規模な医学にほかならない」という言葉を残しました。これは、医療を通じて国民の健康を維持し、生命を守ることが、国家の基盤そのものであるという本質を提唱しています。
しかし、この観点から現在の日本市場を見渡すと、深刻な課題が浮かび上がります。国民の生命を守る医薬品・医療機器産業は、いずれも巨額の輸入超過に陥っており、その超過規模は合計で約6兆円に達しています。この背景には、2000年代以降に世界を席巻したバイオ医薬品開発のイノベーションの波に乗り遅れたこと、度重なる薬価引き下げによる国内市場の地盤沈下、そして高度な治療系医療機器分野における日本企業の存在感不足などがあります。この現状を政府も「医療安全保障上の危機」として重く受け止めており、現在は創薬や先端医療の活性化を国家の最重要成長戦略の一つに位置づけています。

創薬・先端医療の領域を持続可能なものにするためには、「攻め」と「守り」の両輪が機能しなければなりません。「攻め」とは言うまでもなくイノベーションです。日本がグローバルな競争力を取り戻すには、他国に先駆けて革新的な技術や製品を生み出し、それを適切に評価する市場環境を整える必要があります。ここで生まれた製品が輸出拡大や税収増加をもたらし、その富が日本の優れた医療制度の維持という「守り」の財源へと還元されていく。この「正のスパイラル」を巻き起こす起点こそが、絶え間ないイノベーションなのです。
好例が「肥満治療薬(GLP-1受容体作動薬)」の市場です。この領域は年平均成長率が80%以上という驚異的なスピードで拡大しており、糖尿病等のハイリスク患者に対する治療ニーズがいかに巨大であるのかを物語っています。適正な薬物治療は、個人の健康だけではなく国全体での医療費抑制にも寄与することが実証されつつあります。 この市場はデンマークのノボノルディスクや米国のイーライリリーがリードしていますが、2026年4月、この分野に大きなパラダイムシフトが起きました。日本の大手製薬会社が創製した1日1回投与の「経口」治療薬が、米食品医薬局(FDA)から承認を取得し、これまで主流だった皮下注射の痛みや煩わしさから患者を解放するという新たな選択肢ができたのです。

また、先述のノボノルディスクやイーライリリーは、肥満治療薬で得た莫大な利益を次のイノベーションの源泉であるスタートアップへと再投資し、次世代技術を取り込む「正のエコシステム」を構築しています。 例えば、アイルランドのスタートアップ「FIRE1」の事例が挙げられます。同社は、体内の水分貯留によって血管が太くなる点に着目した、植込み型の心不全モニタリングシステムを開発しています。ノボノルディスクの投資部門(Novo Holdings)は、GLP-1受容体作動薬を心不全治療へ適応拡大するシナジーを見据えて同社へ出資。さらに、アイルランドの医療機器大手、メドトロニックも自社ポートフォリオとの相乗効果を狙って共同出資を行うなど、大企業がスタートアップをハブとして結びついています。
さらに、医薬品分野では米国のStrand Therapeutics(ストランド・セラピューティクス)が、マサチューセッツ工科大学(MIT)の北田輔博士らが開発した遺伝子治療技術の社会実装に挑んでいます。強力な抗がん作用を持つ一方で毒性が極めて強い「IL-12(インターロイキン-12)」を、腫瘍組織だけに狙い撃ちして発現させる画期的な技術を開発。40年近くにわたって取り組んできたこの技術に、イーライリリーをはじめとする製薬大手が注目し、ストランド社は2025年に約225億円の資金調達を成功させています。

このように、創薬・先端医療という領域で勝ち続けるためには、イノベーションを起こし続けるしかありません。革新的なシーズが枯渇すれば、医療の選択肢も国の財源も失われるという「負のスパイラル」に転落してしまいます。だからこそ、リスクを恐れずに挑戦し続けるスタートアップの存在が、人類の健康を守る鍵となるのです。

本日は、大企業との共創によって健康な未来を切り拓く、注目のスタートアップ5社を紹介します。

Arrowsmith(アロースミス、茨城県つくば市) は、深刻な社会問題となっている薬剤耐性(AMR)細菌感染症に対する新規治療法「ファージセラピー」を開発しています。自然界から採取した既存のファージに頼る他社とは異なり、同社は独自のゲノム編集・合成改変技術により、機能や攻撃力を大幅に向上させた「機能改変ファージ」をゼロから創出できる点が圧倒的な強みです。米国の規制当局と連携し、グローバルでの臨床試験(治験)入りを目指しており、そこで培った世界基準の知見を日本国内でのファージセラピー承認・普及に還元していく計画です。
メドキュレーション(静岡県長泉町)は 難治性の骨盤内がん(子宮頸がん、膀胱がんなど)に対する、革新的な局所化学療法「NIPP」用の医療機器開発を手がけています。NIPPは、特殊なカテーテルと閉鎖循環システムを用い、骨盤内の血流を一時的に全身から隔離した状態で、超高濃度の抗がん剤をがん組織へダイレクトに届ける治療法です。投与した薬剤は体外のフィルターで回収・排泄されるため副作用を劇的に軽減しつつ、極めて高い治療効果を発揮します。2030年代初頭の薬事承認と保険償還を目指し、日本発の低侵襲がん治療システムとして世界展開を見据えています。
TL Genomics(ティーエルジェノミクス、静岡県長泉町)は 独自の特許技術に基づき、女性の「自然妊娠の可能性(妊娠力)」を血液1滴から高精度に評価する血液検査サービスを世界で初めて提供しています。同社が確立した、ミトコンドリアの劣化などを捉える体内老化指標の測定技術を応用し、自身の身体に最適な妊娠計画や、早い段階での効果的な高度生殖医療へのステップアップを後押しします。不妊治療に臨むカップルの経済的・精神的、身体的な負担を大幅に軽減する妊娠力検査サービスとして、グローバルな需要獲得に向けた資金調達と欧米進出を加速させています。
リードファーマ(大阪府吹田市)は国立循環器病研究センターや大阪大学の優れた学術シーズを基盤に、独自の「安全装置」技術を用いて、副作用がボトルネックとなって過去に開発が頓挫した有望な新薬候補を蘇らせる創薬ベンチャーです。特に次世代医療として期待される「核酸医薬」において、脳や神経への高い毒性を大幅に抑えながら、標的への高い治療効果だけを安全に引き出すことに成功しました。自社でのパイプライン開発を進めると同時に、世界のメガファーマに対してこのプラットフォーム技術をライセンス提供するグローバルなビジネスを展開しています。
Global Vascular(グローバルバスキュラー、東京都千代田区) は、膝下の動脈閉塞によって足を切断せざるを得ない患者を救うため、歩く未来を守る次世代型「BioStealthステント」の開発に挑んでいます。これまでの細い血管へのカテーテル治療は、血管が再び狭くなる「再狭窄」の発生率が非常に高いことが長年の課題でした。同社は、極小血管にフィットする高度なステント設計技術に、異物反応を極限まで排除する「ダイヤモンドナノコーティング(DLC)」と、内膜肥厚を防ぐ薬剤コーティングを融合。下肢切断のリスクを劇的に低下させる優位性を誇ります。
創薬や医療機器の開発には、莫大な資金と10年以上の長い年月がかかります。民間投資家や金融機関による長期的な成長資金の供給に加え、国内のメガファーマや大手医療機器メーカーが、有望なスタートアップを早期に買収・統合、またはライセンス提携する仕組みが一段と活発になる。これによって真のライフサイエンス立国へと飛躍を遂げるはずです。
▼テーマリーダーProfile
デロイト トーマツ ベンチャーサポート株式会社
インダストリー&ファンクション事業部
鈴木 慶子
日系大手メーカーで創薬研究に従事 同社における創薬研究の立上げに携わり、シーズ探索からINDまでの幅広い創薬ステージで非臨床薬理から安全性評価までを担当
→がん、免疫、神経、mRNAワクチン
→低分子、核酸、DDSシステム
現職ではライフサイエンス・ヘルスケア産業におけるイノベーション創出に従事
→大企業:新規事業創出支援
→自治体:イノベーションエコシステム構築支援
博士(医学)、薬剤師
~イノベーショントレンドを定期的にキャッチアップされたい方へ~
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